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ワンドの9

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数年前まで、うさぎと一緒に暮らしていた。


「飼っていた」と言わないのには理由がある。

彼(牡兎である)は我が家のおおかたの場所を自分のテリトリーとし、
自由闊達に駆け回り、遊びまわり、跳ねまわって暮らしていた。

どちらかと言えば、私のほうが自分の居場所を探してうろうろしていた。
広くもない2DKのマンションだが、専有面積が大きいのはうさぎの方だったのである。

彼が事情によって家にやってきた当初、うさぎのケージは廊下に置かれていた。
おずおずとケージから現れた彼は、まず廊下のすみにおしっこをすることでテリトリー宣言をした。

一緒に住み始めて一月足らず。
私が仕事部屋にしていた四畳半ほどの小部屋は、うさぎに召し上げられた。

数週間後。彼はダイニングまで出張してくるようになった。

さらに数週間。リビングが彼のお気に入りの遊び場になった。

小部屋から廊下を駆け抜けてダイニングで跳躍、そのままリビングにダイブして
気足の長い絨毯が草原でもあるかのように走り回り、嬉しそうに鼻を鳴らす。

放し飼いの自由さが功を奏したのか、彼はうさぎとしては記録的な長寿を全うした。


しかし、今も不思議に思うことがある。
彼がテリトリーとしなかった、むしろ、入るようにうながしても絶対に肯んじなかった、
数少ない場所があったことだ。

彼は浴室と脱衣所には決して入らなかった。
しかしこれは、家に来たばかりの頃にいちど、あまりにお尻が汚れていたので
無理にお風呂に入れて洗ったときの恐怖が尾を引いていたのかもしれない。

謎めくのは、キッチンに立ち入らなかったことだ。
ダイニングとキッチンは完全に一体化していて、扉も段差も何もない。
ただ、ダイニング部分にはカーペットが敷かれ、キッチン部分はビニールクロスの床材という差だけだ。
うさぎは決して、どんなに浮かれて走り回っているときでも、キッチンに一歩も踏み込まなかった。
私が彼の好物の明日葉やリンゴを持っているときも、ダイニングのぎりぎり端でぴたりと止まり
いかにも欲しそうにぐうぐうと喉を鳴らすばかりだった。

謎である。

彼なりに、自分のテリトリーはここまでで、境界線から先は人間のテリトリー、と
決めていたのかもしれない。


ところで、縄張りという言葉は奇妙である。

人間が自分の領域として意識する範囲、言い換えれば他者の接近を不快に思う距離のことは
パーソナルスペースと言う。
「縄張り」を持つと表現されるのは、基本的に動物だけである。
人間では、勢力争いを繰り広げるある種の職業の人についてのみ、
揶揄の意味合いで「縄張り」と言うのではないだろうか。つまりは動物扱いである。

考えてみればおかしなことだ。
「縄」を「張る」のは人間だけだ。
古来、領地や城の範囲を決める際に縄を張りめぐらして場所取りをしたことが語源らしいが、
動物はそんなことはしない。尿や臭腺でマーキングするだけだ。
「縄張り」とは、擬人的な表現なのである。


ワンドの9の人物は、幾本もの棒を立てて縄張りを守っている。
見たところ棒の間隔はスカスカで頼りなく、誰でもいつでも侵入できそうな状態だ。
つまりこれも、形式としての「縄」であり、心理的なテリトリーの表明だと解釈できる。

この領域に入りにくいのは、棒というより中の人物の顔つきのせいだろう。
負傷した頭部に包帯を巻き、こんど俺に手を出したら容赦しないぞという形相で
肩をすくめるようにして自分を守り、胡乱そうに辺りをにらんでいる。
いわゆるところの“近寄らないでオーラ”を存分に放出している。

防衛心、ガードの固さ、縄張り意識、抵抗力、領分、シャットアウトを意味するこのカードは
見ようによっては痛々しい。
必死に守っていなければ壊れてしまう脆さを感じさせる。

なぜか。


「縄張り」が成立するのは、そうでない場所のほうが圧倒的に広いからである。
テリトリーの語源はterra、つまり地球、つまり大地であるわけだが
そもそも、地球上の大地に境界線などない。
そこを小さく区切って、一時的に自分の場所とするのは動物だ。
しかし動物は、自分が立ち去ったあと、死んだ後もそこが縄張りであるなどと思わない。

そんな勘違いをするのは人間だけだ。

縄やら棒やら石造りの壁やら、国境線やら不動産売買やらで地球を区切り
そこが自分のテリトリー、未来永劫自分のもの、などと勘違いしているのは
人間だけである。

百年、千年もたてば、そんな縄張りは残っていないだろう。
一万年、十万年後。大地そのものも形を変え、地球が続いているかどうかの保証もない。
どだい、自分の死後も自分のテリトリーであることに何の意味があるのか。

犬のおしっこと大差ない、ほんの一時のマーキングでしかないのに
自分を支える大地そのものだと誤解して、しがみつこうとする意識は痛々しい。

領土を区切った瞬間、その外はすべて敵の土地になることも
実際に仕切ってみるまで気づかないのではないか。


とは言え、ひとときの安全、一時の安心でさえ得難いのがこの世界である。
しばらくの間でも、ある場所を自分のしるしで区切って、
世界の中に「内側」をつくって、
ほっとしていたい…というのが、人間を含めての動物たちの本音ではあるだろう。

縄張りづくりとは、痛々しくも可愛い、弱い生き物のゲームなのかもしれない。


うさぎがキッチンに立ち入らなかったのは、おそらく
「どこかで区切らないと、自分のテリトリーが実感できないから」
ではなかったか、と、今は思っている。
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ワンドの8

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無題

人生でいちばん忙しかったのは、おそらく高校二年生の秋だ。

私は文化祭の実行委員長だった。
都立芸術高校という、美術科・音楽科を合わせても全学年で6クラスしかない、
とても小さな規模の高校ではあったが
年に一度の学祭はそれなりに盛大だった。

私は、やたらと多くのクラブに入っていた。軽音、漫研、文芸、演劇、etc.
自分たちで立ち上げた同好会もいくつかあり、文化祭当日には
大掛かりなダンス舞台や、バンドのライブをステージで披露することになっていた。
クラス単位での出し物も勿論ある。
そもそも美術科の学生なので、普段の勉強や課題の製作もあった。
そうした中で、会議につぐ会議、設営、プログラムの準備、外部との連絡などの仕事が
雪崩のように押し寄せてくる。汗かき走り回る日々。

…という記憶は、実はおぼろげである。
なにしろ三十年以上も前のことなので、あまり憶えていない。

基本的に私は忙しがりだ。いつも時間がなくて、せかせかしている。
常に複数の仕事を並行して行っていて、趣味も多く、学びたいことも多い。
タロットだ塾だ乗馬だボクシングだと走り回り、
人とも会いたいし旅行もしたい、本も読みたいし文章も書きたいし
絵も漫画も描きたいし語学も園芸も家の中の雑事もばっちりこなしたい!と
気負いこんだ挙句、どれも中途半端になる。
実りのない、困った性分である。

大体いつも忙しがっているのだが、高校の文化祭がいちばん大変だった!と言えるのは
ひとつの確かな記憶があるからだ。

当時、私はスケジュール帳を使っていた。
ごくありふれたノート形式のもので、見開き2ページにひと月の予定を書き込むスタイルだった。
一年の終わり、新しいスケジュール帳に切り換えるときに
びっしりと日々の記録が書き込まれたページをパラパラとめくって
私は思わず笑ってしまった。

文化祭のあった10月だけ、真っ白なのだ。
何の書き込みもない、白紙の見開き。

本当に忙しいときは、スケジュールを書く暇すらない。
覚え書きをメモする暇すらないのだ。

白紙のページは、あまりの忙しさにおそらくは真っ白になっていた、
私の頭の中のようだった。



ワンドの8の札には、人が描かれていない。

びゅーんと空を切って飛び去る八本の棒があるだけだ。

紀元前から中世までの戦争をイメージすると、この絵柄の表すところがわかる。
敵の城塞、侵略したい陣地に攻め込むとき、飛行機やミサイルはない。
投てき器を用いて、重い石や燃えさかる棍棒を飛ばすのだ。
砦を守る者たちが燃える矢に射抜かれたり、打ち込まれる丸太に弾き飛ばされたり、
といった戦いの様子を、映画で観たことのある人もいるだろう。

ワンドの8では、すでに戦いが始まっている。
青空を切り裂く棒は、すべて平行に描かれている。
最長距離を最短時間で飛んでいくこの棒は、スピードを表現している。

考え得る限り最も速い変化。
スムーズな進展と迅速なアプローチ。
正位置である限り、スピーディな展開に邪魔は入らない。快調だ。

逆位置になると、棒はまっすぐに飛ばず、ぶつかりあって
がちゃがちゃと落下してしまう。
進展の速さについていけないのだ。焦りと恐怖に襲われてたじろぎ、
スピードに振り回されてしまう。望みは果たせない。

平行に真っ直ぐ、どれもがぶつかりあうことなく、滑らかに進むのであれば…
速度は味方になる。
最短時間で多くの結果が出せるだろう。

能力や限界を超えて、無理に急ごうとしているのであれば…
速度は敵になる。
猛烈な勢いに吹き飛ばされ、無念の臍を噛む。


先日、初の落馬を経験した。
暴走した馬の背から、勢いよく吹っ飛ばされたのだ。

時間が惜しくて、何もかもと欲張って、急いで焦って無茶をした結果だ。
雑な人間はスピードに乗れない。

どんなに忙しくても、スケジュールをしっかり管理できて
ひとつひとつを丁寧に確実に進められる人にしか
目標の同時進行は許されないのかもしれない。
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ワンドの7

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タロットで迷子を捜したことがある。

迷子と言っても小さな子供ではない。うちの父だ。

休日の、家族連れでごった返すデパートだった。
弟夫婦の家を訪ねるところで
私にとって甥、父にとっては孫、に当たる男の子たちのために
おもちゃでも買っていこうか…と、玩具売り場に立ち寄ったのだった。

うちの父は自由すぎる性格の人で、自分の興味とリズムだけで飄々と歩く。
ワンフロアを埋め尽くすおもちゃの大群に夢中になったのか
ふと気づいたときには、私の視界から消えていた。

慌てて探したが、見つからない。
携帯電話にコールしても、電源が切れていてつながらない。
スポーツ用品や洋服を見に行ったのかも、と
他の階を探してうろうろしたのがまずかった。
余計に、どこにいるのかわからなくなってしまったのだ。

さすがに、館内呼び出しのアナウンスをして貰うのは気が引けた。
迷子はちびっこではなく、高齢者なのである。徘徊老人と思われかねない。

困り果てた私は、携帯していたミニチュア・タロットを取り出した。
「父がどこで見つかるか」という命題に焦点を合わせて、カードを引く。
「ワンドの7」と「ⅩⅦ・星」の連鎖だった。
“見晴らしの良い高いところ”と解釈する。

一階のインフォメーションまで降りて、フロアマップを確認した。
あった。これだ。ここのことだ。

地下二階の食品売り場は吹き抜けになっているが、
半分ほどの広さで地下一階がかぶさり、カフェや休憩所のあるデッキが張り出している。

そのデッキに立ち、私は地下二階の食品フロアを眺め渡した。
ほんの数分後、眼下の通路を、父がのんびりした様子で歩いていくのが見えた。
私は脱兎のごとく階段を駆け下りて、無事に父をつかまえた。
「ありゃ。どこにおったんじゃ?」と、呑気に言っている父を。


ワンドの7には、小高い丘の上の方で応戦する人物が描かれている。
複数の敵が下にいるが、自分が上に立っている分だけ状況は有利だ。
優勢である故に強気の勝負を挑むこと、
有利な立場で対決することを、このカードは意味している。


上から見れば、ものごとはよく見える。
俯瞰の視点は神の視点だ。


教壇からは、生徒たちの様子が本当によく見える。
自分が生徒だったころは思いもよらなかった。
机の中で携帯電話をいじっていたら、即座にわかる。
ましてやカンニングなど、気付かずにいるのが難しいほどだ。
人の脳には、人の目線、眼球の動きに反応するニューロンがある。
焦点を合わせずにぼんやりと視界全体を見ていても、
誰かの目がちらり、と動くだけで反応するのだ。
あの男子はこの女子が好きなのだなあ、とか
あいつは真面目に聴いている顔をして半分眠っているな、とか
すべて見えている。
一段上の教壇に立っているのだから。


自分の位置が高くなればなるほど、下のものはちっぽけに見える。
「人がゴミのようだ」と言い出しかねない。


冬期講習の最中だったが、悪化した風邪が治らず高熱が出ていた。
呼吸をするたびに胸が痛み、咳き込むと口から血が飛び散った。
大晦日の前々日、一時間だけ休講させてもらって病院に行った。
すさまじく高圧的な医者がいて、自分の偉さを得々と語りながら
患者である私の顔は一度も見ないで診察をした。
肺炎だった。
そうであっても休めないので教室に戻る、と言うしかなかったが
医者は鼻で笑い、馬鹿なんじゃないの、と言った。

その病院には二度と行っていない。


思い上がった人間になる三大職業、というものがあるらしい。
教師、医者、占い師、なのだそうだ。

どれも、いつも下から教えを請われ、命や運命を託す人々に拝まれるため
いつの間にか生徒や患者や客を下に見るようになり、
とんでもなく思い上がった、増上慢の俗物に成り果てる…という。


そのうち二つを生業としている私としては
思い上がるほどの力も業績もないからこそ、勘違いに陥らないように
いつもいつも、振り返り続けるしかない。

ワンドの7は、いつだってあっさりと逆転する。
自分はひとりきりで下にいて、上から複数の敵に棒で叩きのめされる、という
圧倒的に不利な立場に追い込まれかねない。

上の方に立つのは、ものごとをよく見晴らすための手段なのだ。
困っている人、迷っている人を見つけるために。

手段と立場を勘違いした瞬間に、人は奈落に転がり落ちるのだろう。
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ワンドの6

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馬が振り返って乗り手を見るのは、文句があるときだけらしい。

「大抵は、こいつ嫌だなあ、降りてくれないかなあ、って気持ちのときだね」
乗馬クラブのトレーナーの話を聞いて、ふき出しそうになってしまった。
ワンドの6の札を思い出したのだ。


ワンドの5での争いにひとり勝ちをおさめたのか、
このカードでは月桂冠を戴いた人物が凱旋の行進をしている。
快晴の空のもと、騎乗姿勢はあくまで堂々と誇り高く、
勝者の威厳を見せて彼は進んでいく。

よく言われるのが、馬の不自然さだ。
パレードの衣装にも見えない、緑色の奇妙な馬着を身につけている。
足並みや体勢からはあり得ない方向に布は膨れ、まとわりつき、
その下に誰かが隠れていることを暗示している。

おそらくは、敗北を喫した敵たちが下に潜んでいて
馬上の人物が気を抜いた瞬間に襲い掛かろうとしているのだ。

まるでトロイの木馬のように。

有頂天の勝者はあっという間に逆転されて
栄光は三日天下で終わってしまう。
つかの間の正位置は逆位置に取って代わられ
勝利のカードは、瞬時に敗北のカードとなる。


馬の頭も、造り物めいて不自然だと思っていたのだが
気付かなかった。
この馬は、振り返って馬上の勝利者をにらんでいる。
不満そうな目つきで。

もしかすると、彼の持った棒の先、月桂樹のリースのリボンが
風にはためいているのが気に入らないのかもしれない。
馬は、ひらひらするものに不安を感じ、気を荒立てる。
そのリボンは、彼の油断と慢心の表れだろう。


格闘技の世界王者になった男がいた。
引退後も指導者として活躍し、いつも華々しいイメージに包まれていた。
頂点を極めるために多くを犠牲にし、ひたすら駆け上ってきた男は
自分にも他人にも、弱さと限界を認めることができなかった。
努力してもうまくできない人間を見ると、彼は苛立った。
彼は身体の弱い妻を殴った。
妻は彼のもとを去った。
彼は独りになった。


プロイセンの軍人にして軍事学者、クラウゼヴィッツは「戦争論」の中で
「戦略にとって勝利は、もともと単なる手段にすぎない」と述べる。
しかしそれは、勝者の力をさらに振興するとも論じつつ、
このようにも述べている。

「ところで今ひとつ問題がある。
このような勝利は、敗者の側に、
敗戦を経験しなかったなら決して発現することがないような力を
喚起させはしまいか、ということである」

しかしそれはもはや、戦争術の領域には入らない、と断じ、
「そのようなことが実際に起こり得るときに考慮すればいいのである」
と、切り捨てる。


勝利だけを見て突き進んでいるとき、
人は敗者の側の気持ちを考えない。

負けたことによって、さらに強くなる者もあるということを
意識から外し、自分の強さにだけ酔いしれる。


優勝へと続く道は、一回ごとの敗北を踏み台にして出来ている。
勝者の栄冠を支えているのは、足の下に踏みしだいてきた敵なのだ。
勝たせてくれた者があってこそ、勝利は存在する。

それを見失ったとき、足元は崩れる。

勝利と敗北は同じことを、逆の面から見ているのに過ぎないのだ。
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ワンドの5

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教室に入ると、小学六年生の男の子が二人、白熱した議論を交わしていた。

授業前のひと時。
私が講師をつとめている塾でのことである。

ホワイトボードに図まで描いて、自説を強調することに熱中している。
二人の考えは真っ向から対立していて、互いに一歩も譲らない。

なかなか面白そうだったので、授業など放っておいて
私は二人の張る論陣を傾聴することにした。

なにしろ、彼らが論じているテーマは

「運命は変えられるのか、それとも変えられないのか」

というものだったからだ。

形而上的な哲学論争で概念的思考を発達させる小学生。
「室町時代の文化」について授業をするよりもずっと勉強になるだろう。

普段の彼らは、そのような舌戦を繰り広げるようなタイプではない。
私立中受験をする位だから育ちも頭も悪くはないが、
どちらかと言えばチャラい。都会の現代っ子だ。
ネットを通じて大人顔負けの情報を知ってはいるが、
根はふざけん坊でノリの良い、遊び盛りの小学生である。

それが、運命について論争。
ディベートごっこでも、大人の真似事でもなかった。

何気なく話しているうちに、
お互いの考えが異なっていることに気付いたのだろう。
たぶん、生まれて初めて。
同じ環境にいる同世代の同性が、自分と異なった概念世界に住んでいる。
本当にびっくりしたのに違いない。

驚いて相手の論拠を確かめ、自分の信念を伝えようとし、
それが伝わり切らないことに歯噛みしながら
懸命に話し合っているのだ。

「ちがうちがう!こうだろ、運命ってのはこう
(ホワイトボードに描いたいくつかの〇を矢印でむすぶ)
つながってて、次にどうなるかは決まってるんだよ」

「いや違うね、こういうふうに(〇からたくさんの矢印が出ている図を描く)
未来はいろいろにつながってるんだよ。どっちに行くかはわからないんだ」

「じゃなくて!それは過去から未来を見た場合だろ?俺が言ってんのは…」

「未来から過去を見るってのがまずあり得ないだろ、人間の運命なんだからさあ…」

K君が主張しているのが伝統的な運命論で、
S君が説明しているのは自由意志論のようだった。

何千年も繰り返されてきた論争を、今ここで小学生が自発的に。

当然ながら、この論争に決着はつかない。


意見が相容れないことに業を煮やしたK君、S君が
「先生!どっちが正解なんすか!」と訊いてきたが
もちろん正解なんてない。

どちらの意見も正しいのだと言ってはみたが、
そうした場合にありがちな結果として
双方から不満な顔をされることになった。


どっちだっていいのだ。

大事なのは、彼らが子供ながら本気で、むしろ子供だから真剣に、
自説を絶対にゆずらず、それでも相手の考えを肚の底から理解したくて、
徹底的に論争をしていたことなのだ。


ワンドの5の札には、棒で交戦する五人の人物が描かれている。
各々の服の違いは、立場と考え方の違いを表している。
俺が!俺が!と主張し合って譲らない、一歩も退かない人々。

喧嘩札、争いカードと呼ばれる札である。
正位置でも、逆位置でも「ケンカはダメよ」とばかりに
否定的な意味に解釈する人も多い。
平和主義者にとっては心地の悪いカードなのだろう。


とは言え、闘争心は最も原初的な衝動なのかもしれない。
恐怖と同じくらい古く、強い。
生き延びることに直結した感情だ。

その表出を抑えなければ、社会では生きていけない。
闘争心をコントロールできない者のために刑罰はある。
転換するか、昇華させるか。


スポーツ競技の場でそれを炸裂させること。
頭脳戦でもいい。何を競うのでもいい。
互いの力を認めあったうえで、同じフィールドで同じ武器を使い
力を戦わせるワンドの5のカードは、決して悪いだけの札ではない。
闘うことの価値を見せてくれる札だと思うのだ。

子供ながら、互いの論拠を尊重しつつも微塵も退かず、
信念と主張を戦わせていたK君とS君が、とても格好良かったように。
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