
わたしたちが何かを決めるとき、脳ではその七秒も前に、決断を意味する神経の発火活動が起こっているという。
「これだ!」と選択した瞬間のずっと前に、脳内では決定のプロセスが進行している。
ぎりぎりまで考え抜いて、諾か否かを悩みに悩んで、ようやく決めたことなのに
神経系統には先に答えがわかっていて、事前に動き始めているという事実。
わたしたちの「意志」とは何なのか、考えさせてくれる事実だと思う。
結局、すべての判断を下しているのは広大な無意識なのだろうか?
思考とは、インスピレーションのはるか後を、よたよたと遅れてついていくだけのものなのか?
それについて考えるとき、一枚のタロットを思い浮かべる。
ワンドのAである。
ワンドのAからペンタクルの10まで、小アルカナの40枚は“ひとつながり”になっている。
まるで、神経系が脳や脊髄から末梢神経の端々にまでしっかりとつながっているように。
「カバラの四界」という考え方がある。
ユダヤ教……というよりは、その西欧的な解釈の“クリスチャン・カバラ”では
生命の樹、というものを思想の中心に据えている。
生命の樹とは、10個の円(ほんとうは球)が22本の線(ほんとうは道)でつながった、
迷路のような、星座のような、集積回路のような、バクテリオファージのような、奇妙に美しい図形だ。
その生命の樹が上から下に(あくまで観念的な、階層としての上下)四本、並んで立っている。
上から順にワンド、カップ、ソード、ペンタクルの生命の樹が、縦につながって立っている。
それが「カバラの四界」である。
生命の樹のてっぺんにある一番目の球は、ケテル(王冠)という名前を持っている。
そこはエネルギーが発される点であり、光源であり、根源的な場所に接続されるコンセントでもある。
ここから流れ出した力が、径を辿って二番目の球に入り三番目、四番目……と進んでいき、
十番のマルクト(王国)に到達してゴール。
この十個の円球が、それぞれ小アルカナのAから10までに対応しているのだ。
ワンドのAはすべてのスタートになる。
「光あれ」という神の声のように、ビッグバンのように、そこからエネルギーが流出する。
言葉にも動作にも意識にすらならない、原初的な衝動が。
最終的な到達点めがけて、一気に発火するのだ。
ワンドの10でいっぱいにチャージされた意志と情動は、カップの世界に流れ込んでいく。
純粋すぎて何ものでもなかった衝動は、そこで感覚に結びつく。イメージを孕む。
豊かなインスピレーションが沸き上がる。カップの生命の樹をエネルギーが流れていき、
それはソードの世界に流入する。力はロゴスと情報を得る。最構築されデータとして再編集されて
言語による推論が生命の樹を巡る。ことばはコミュニケーションを呼び、精密になっていく。
ソードの10に到達したパワーは、螺旋状にうねりながらペンタクルの世界へと流れ、
ついに形を取る。意志とイメージと情報でしかなかったものが回転しながら凝縮し、元素となる。
粒子が生まれる。斥力で結びつき、空間を押し広げ、存在がたしかな形を取り始める。
物質があらゆる地点からやってくる。ひとつの形をつくるために遠くから飛来する。
そしてこの世界に、質量を持った現実が姿を現す。ペンタクルの10において完成する。
つまり。
わたしたちの意志はすべて、上記のプロセスを経て、この世界で実現する……ということである。
途中で流れが滞ったり、逆流したり、迷走したりしないかぎりは。
しかし。
悲しいことに、わたしたちの願いのうち叶うものは、ほんの一撮みにも満たない。
意志は、生命の樹のどこかでストップしてしまう。
現実化する前に、
やみくもな焦りのなかで、あるいはご都合主義的な妄想の中で、
またはとめどないお喋りの内に、三日坊主な努力のなかで、
消えてしまう。
この世界は叶わぬ願いで溢れ返っている。
タロットの仕事とは、本来ここにある。
なぜ意志が通らないのか、どうして願いが叶わないのか、
どの生命の樹のどこの場所で流れが滞っているのか、それを見つけるのだ。
エネルギーの渋滞を解消し、本来の道を流れるようにしてあげれば、
望んでいることはすべらかに現実化するのだから。
人が心の底から願うことは、光あれと叫ぶ神の声に呼応している。
私利私欲でなく、計算も本能も度外視した次元から放たれる「意志」の流出は
わたしたちの意識がコントロールできない、
知覚の七秒前の世界から始まっているのだから。