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ワンドの6

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馬が振り返って乗り手を見るのは、文句があるときだけらしい。

「大抵は、こいつ嫌だなあ、降りてくれないかなあ、って気持ちのときだね」
乗馬クラブのトレーナーの話を聞いて、ふき出しそうになってしまった。
ワンドの6の札を思い出したのだ。


ワンドの5での争いにひとり勝ちをおさめたのか、
このカードでは月桂冠を戴いた人物が凱旋の行進をしている。
快晴の空のもと、騎乗姿勢はあくまで堂々と誇り高く、
勝者の威厳を見せて彼は進んでいく。

よく言われるのが、馬の不自然さだ。
パレードの衣装にも見えない、緑色の奇妙な馬着を身につけている。
足並みや体勢からはあり得ない方向に布は膨れ、まとわりつき、
その下に誰かが隠れていることを暗示している。

おそらくは、敗北を喫した敵たちが下に潜んでいて
馬上の人物が気を抜いた瞬間に襲い掛かろうとしているのだ。

まるでトロイの木馬のように。

有頂天の勝者はあっという間に逆転されて
栄光は三日天下で終わってしまう。
つかの間の正位置は逆位置に取って代わられ
勝利のカードは、瞬時に敗北のカードとなる。


馬の頭も、造り物めいて不自然だと思っていたのだが
気付かなかった。
この馬は、振り返って馬上の勝利者をにらんでいる。
不満そうな目つきで。

もしかすると、彼の持った棒の先、月桂樹のリースのリボンが
風にはためいているのが気に入らないのかもしれない。
馬は、ひらひらするものに不安を感じ、気を荒立てる。
そのリボンは、彼の油断と慢心の表れだろう。


格闘技の世界王者になった男がいた。
引退後も指導者として活躍し、いつも華々しいイメージに包まれていた。
頂点を極めるために多くを犠牲にし、ひたすら駆け上ってきた男は
自分にも他人にも、弱さと限界を認めることができなかった。
努力してもうまくできない人間を見ると、彼は苛立った。
彼は身体の弱い妻を殴った。
妻は彼のもとを去った。
彼は独りになった。


プロイセンの軍人にして軍事学者、クラウゼヴィッツは「戦争論」の中で
「戦略にとって勝利は、もともと単なる手段にすぎない」と述べる。
しかしそれは、勝者の力をさらに振興するとも論じつつ、
このようにも述べている。

「ところで今ひとつ問題がある。
このような勝利は、敗者の側に、
敗戦を経験しなかったなら決して発現することがないような力を
喚起させはしまいか、ということである」

しかしそれはもはや、戦争術の領域には入らない、と断じ、
「そのようなことが実際に起こり得るときに考慮すればいいのである」
と、切り捨てる。


勝利だけを見て突き進んでいるとき、
人は敗者の側の気持ちを考えない。

負けたことによって、さらに強くなる者もあるということを
意識から外し、自分の強さにだけ酔いしれる。


優勝へと続く道は、一回ごとの敗北を踏み台にして出来ている。
勝者の栄冠を支えているのは、足の下に踏みしだいてきた敵なのだ。
勝たせてくれた者があってこそ、勝利は存在する。

それを見失ったとき、足元は崩れる。

勝利と敗北は同じことを、逆の面から見ているのに過ぎないのだ。
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ワンドの5

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教室に入ると、小学六年生の男の子が二人、白熱した議論を交わしていた。

授業前のひと時。
私が講師をつとめている塾でのことである。

ホワイトボードに図まで描いて、自説を強調することに熱中している。
二人の考えは真っ向から対立していて、互いに一歩も譲らない。

なかなか面白そうだったので、授業など放っておいて
私は二人の張る論陣を傾聴することにした。

なにしろ、彼らが論じているテーマは

「運命は変えられるのか、それとも変えられないのか」

というものだったからだ。

形而上的な哲学論争で概念的思考を発達させる小学生。
「室町時代の文化」について授業をするよりもずっと勉強になるだろう。

普段の彼らは、そのような舌戦を繰り広げるようなタイプではない。
私立中受験をする位だから育ちも頭も悪くはないが、
どちらかと言えばチャラい。都会の現代っ子だ。
ネットを通じて大人顔負けの情報を知ってはいるが、
根はふざけん坊でノリの良い、遊び盛りの小学生である。

それが、運命について論争。
ディベートごっこでも、大人の真似事でもなかった。

何気なく話しているうちに、
お互いの考えが異なっていることに気付いたのだろう。
たぶん、生まれて初めて。
同じ環境にいる同世代の同性が、自分と異なった概念世界に住んでいる。
本当にびっくりしたのに違いない。

驚いて相手の論拠を確かめ、自分の信念を伝えようとし、
それが伝わり切らないことに歯噛みしながら
懸命に話し合っているのだ。

「ちがうちがう!こうだろ、運命ってのはこう
(ホワイトボードに描いたいくつかの〇を矢印でむすぶ)
つながってて、次にどうなるかは決まってるんだよ」

「いや違うね、こういうふうに(〇からたくさんの矢印が出ている図を描く)
未来はいろいろにつながってるんだよ。どっちに行くかはわからないんだ」

「じゃなくて!それは過去から未来を見た場合だろ?俺が言ってんのは…」

「未来から過去を見るってのがまずあり得ないだろ、人間の運命なんだからさあ…」

K君が主張しているのが伝統的な運命論で、
S君が説明しているのは自由意志論のようだった。

何千年も繰り返されてきた論争を、今ここで小学生が自発的に。

当然ながら、この論争に決着はつかない。


意見が相容れないことに業を煮やしたK君、S君が
「先生!どっちが正解なんすか!」と訊いてきたが
もちろん正解なんてない。

どちらの意見も正しいのだと言ってはみたが、
そうした場合にありがちな結果として
双方から不満な顔をされることになった。


どっちだっていいのだ。

大事なのは、彼らが子供ながら本気で、むしろ子供だから真剣に、
自説を絶対にゆずらず、それでも相手の考えを肚の底から理解したくて、
徹底的に論争をしていたことなのだ。


ワンドの5の札には、棒で交戦する五人の人物が描かれている。
各々の服の違いは、立場と考え方の違いを表している。
俺が!俺が!と主張し合って譲らない、一歩も退かない人々。

喧嘩札、争いカードと呼ばれる札である。
正位置でも、逆位置でも「ケンカはダメよ」とばかりに
否定的な意味に解釈する人も多い。
平和主義者にとっては心地の悪いカードなのだろう。


とは言え、闘争心は最も原初的な衝動なのかもしれない。
恐怖と同じくらい古く、強い。
生き延びることに直結した感情だ。

その表出を抑えなければ、社会では生きていけない。
闘争心をコントロールできない者のために刑罰はある。
転換するか、昇華させるか。


スポーツ競技の場でそれを炸裂させること。
頭脳戦でもいい。何を競うのでもいい。
互いの力を認めあったうえで、同じフィールドで同じ武器を使い
力を戦わせるワンドの5のカードは、決して悪いだけの札ではない。
闘うことの価値を見せてくれる札だと思うのだ。

子供ながら、互いの論拠を尊重しつつも微塵も退かず、
信念と主張を戦わせていたK君とS君が、とても格好良かったように。
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ワンドの4

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家から出ることが、怖くてたまらない頃があった。

外では何が起きるかわからない。
見知らぬ人や予測のつかないことすべてが恐ろしかった。
心が弱っていた時期だったのだと思う。

家の中は、楽しくも素晴らしくもなかったが
少なくとも安全だと思われた。
外から何かが攻めてきたら、あっという間にぺちゃんこにつぶれてしまう程度の
「かりそめの安全」ではあったが。

外に出ないでも生きていけるのであれば、
そのまま引きこもりになっていたと思う。
運よく、運悪く、どちらなのかはわからないが
働かなければ生きてはいけなかった。
外の世界にはたくさんの用事があり、会うべき人があり、出かけていく必要があった。
億劫さと恐怖感を全身に詰め込んだまま、
一歩ずつ外へ、少しずつ長く、ちょっとずつ遠くへ、
自分を鼓舞しながら外へと向かった。

本当に少しずつ。

いつの間にか、楽々と外の空気を呼吸できるようになった。

いつしか、足取り軽くどこまでも歩き回るようになった。

とうとう、家に帰るのがつまらなくて、いつまでも外でうろうろ遊んでいる人間になってしまった。

引きこもりの逆は何だろう。出ずっぱり?解き放ち?


外の世界は変化と思わぬアクシデントの連続だ。
そこに新鮮な風があり、うまく波に乗れたときの楽しさがある。

内側の世界は、いわば人為的な無風状態だ。
波立たせず、予定調和をどこまでも続ける。

ひとりでその状態をキープするのは、心が疲れて外の波乱に対応できない時だろう。
内省が必要な時期も、人生には必ずある。
冬の間の種子のように、自分の中身を守り通したら
来たるべき春には、外に向かってぐんぐん伸びていくことができる。

ひとりで「お籠り」するのは、悪いことばかりではない。


怖いのは、集団の内側に籠ることだ。


内輪の世界。その中だけの安定と安全。
そこにいるときは仲間とつながっていて安心だ。
同質なものに囲まれている。予定外の怖いことなど起こりはしない。
そこから排除されるという恐怖以外は。

夜十時ごろのスーパーマーケットに、十人ほどの若者のグループがいた。
狭い通路で全員がポーズを取って写真を撮り合ったり、
携帯のビデオ通話で他所にいる仲間と話し合ったり、賑やかに騒いでいる。
ここは休日のテーマパークではない。平日深夜のスーパーマーケットだ。
勤め帰りの疲れた人たちが、はやく買い物を済ませたいとレジに並ぶ列に割り込んで、
大声で話し、撮影し、端末に向かってポーズを決める。

異様な光景だった。

彼らにとっては、自分たちと、電話回線でつながっている友達だけが現実の存在で
周囲の買い物客や店舗のスタッフの困惑顔、怒りの雰囲気など
存在してはいないのだろう。


ワンドの4は仲良しカードだ。
故郷に帰ったところなのか、旅先で訪れたフレンドリーな村なのか、
花飾りのもとで人々が歓迎してくれている。
安全と安定、リラックスできる環境、仲間、友人。

和やかで安らかなカードではあるが、この札はときどき怖い。

もともとは、何の境界もない自然の世界を、人は四角く区切って
自分の場所だと決める。そこは守られた、安全な味方の場所になる。

しかしその瞬間、四角の外側はすべて敵のいる場所に豹変する。

外側は、内側をつくることで発生するのだ。

ワンドの4の札で手を振る人々は、仲良しには違いない。
しかしそれは、外側の世界にも共に冒険に出掛けられる、本当の仲間だろうか。

内側にいるときだけの仲良しは、おそらく一番こわい敵にもなり得るのだ。
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ワンドの3

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山頂で初日の出を見たことがある。

凍りつくような夜明け前の空の下、
御来光を拝むために詰めかけた人々で、山はぎっしりと混み合っていた。
厚いコートや毛布にくるまって、白い息を吐きながら
東の地平を見つめ続ける。

漆黒の空の裾がすっと、フットライトを浴びたようにほの白んだ。
と、見たこともないほどに赤い、恐ろしいほどに赤い一点が地平線に現れて
それがみるみるうちに上昇し、溶けるかのように真紅を脈動させながら
膨らみ、もはや直視できない光を放つ円盤となって
猛スピードでわたしたちに迫ってきた。

群衆は瞬時、息をつめて
どおん、と轟くような嘆声を放った。
それは日が昇る、というよりも
彼方にある太陽に向かって、
わたしたちの方がぐんぐん近づいていくように見えたからだ。

実際、その感想の方が正しいのである。
太陽は動かない。
動いているのは地球のほうであり
ぐるぐる回りながら太陽に向かって進んでいくのは
わたしたちの方だからだ。

岬に立って東の水平線を、そこから昇る朝日を眺めれば
まさしく船の舳先に立って、進んでいくかのように思えるだろう。

地球は時空を航海する船なのだ。


ワンドの3の人物。
彼は突端に立ち、遥かな水平線を見つめている。
海原は夕焼けの色を映し、長い一日がついに暮れたことを告げている。
彼は冒険に出て、ひとまわり成長して帰ってきたところなのだ。
しかし、その目は故郷に向けられていない。
次の目標、更なる目的にまっすぐ注がれていて、
決して過去を振り返ったりはしないのだ。


3という数は画期的である。

ひとつの物体や、概念があるとする。これが1。
それに対して、別の物体や反対の概念が現れる。それが2。

重ならない二つの点は、相容れない別の存在であることを意味する。
テーゼとアンチテーゼ。
対立する二つの概念。
それは決して、重なることも混じりあうこともない。
世界は光と闇に二分されて睨み合い、
白か黒かいつも選択しなければならない。
世界の端と端。
ターミナルな関係。

3という数字は、とんでもない次元からやってくる。

テーゼとアンチテーゼは、止揚されて高次元で統合する。
分断されたふたつのものは、別のレベルにおいて溶け合い、一致する。
地上で対立していても、天上ではひとつになれるのだ。
双方の眼に映ったものが、脳内で単一の画像になるように。
決して底までは解り得ぬ男女の心が、その子供の上でひとつになるように。

3という数字は、だから迷うことがない。
葛藤が解消され、次なる次元にぐんぐん伸びていく力が3なのだ。


山頂で日の出を待っていたとき、夜明け前のいちばん暗い空のもとで
わたしはたしか何かに迷い、何かを悩んでいた。
人生が大きく変わろうとしているときだった。
決められず選べない、煩瑣な思いがぐるぐると脳内を巡っていたが
それは来光の瞬間に、群衆のどよめきとともに、
どこかに吹き飛んでいった。

悩もうと悩むまいと、迷おうと迷うまいと、

地球という船は、わたしを舳先に乗せて
時速900ノットで、太陽に向かって進んでいることに
気付いたからだった。
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