
タロットで迷子を捜したことがある。
迷子と言っても小さな子供ではない。うちの父だ。
休日の、家族連れでごった返すデパートだった。
弟夫婦の家を訪ねるところで
私にとって甥、父にとっては孫、に当たる男の子たちのために
おもちゃでも買っていこうか…と、玩具売り場に立ち寄ったのだった。
うちの父は自由すぎる性格の人で、自分の興味とリズムだけで飄々と歩く。
ワンフロアを埋め尽くすおもちゃの大群に夢中になったのか
ふと気づいたときには、私の視界から消えていた。
慌てて探したが、見つからない。
携帯電話にコールしても、電源が切れていてつながらない。
スポーツ用品や洋服を見に行ったのかも、と
他の階を探してうろうろしたのがまずかった。
余計に、どこにいるのかわからなくなってしまったのだ。
さすがに、館内呼び出しのアナウンスをして貰うのは気が引けた。
迷子はちびっこではなく、高齢者なのである。徘徊老人と思われかねない。
困り果てた私は、携帯していたミニチュア・タロットを取り出した。
「父がどこで見つかるか」という命題に焦点を合わせて、カードを引く。
「ワンドの7」と「ⅩⅦ・星」の連鎖だった。
“見晴らしの良い高いところ”と解釈する。
一階のインフォメーションまで降りて、フロアマップを確認した。
あった。これだ。ここのことだ。
地下二階の食品売り場は吹き抜けになっているが、
半分ほどの広さで地下一階がかぶさり、カフェや休憩所のあるデッキが張り出している。
そのデッキに立ち、私は地下二階の食品フロアを眺め渡した。
ほんの数分後、眼下の通路を、父がのんびりした様子で歩いていくのが見えた。
私は脱兎のごとく階段を駆け下りて、無事に父をつかまえた。
「ありゃ。どこにおったんじゃ?」と、呑気に言っている父を。
ワンドの7には、小高い丘の上の方で応戦する人物が描かれている。
複数の敵が下にいるが、自分が上に立っている分だけ状況は有利だ。
優勢である故に強気の勝負を挑むこと、
有利な立場で対決することを、このカードは意味している。
上から見れば、ものごとはよく見える。
俯瞰の視点は神の視点だ。
教壇からは、生徒たちの様子が本当によく見える。
自分が生徒だったころは思いもよらなかった。
机の中で携帯電話をいじっていたら、即座にわかる。
ましてやカンニングなど、気付かずにいるのが難しいほどだ。
人の脳には、人の目線、眼球の動きに反応するニューロンがある。
焦点を合わせずにぼんやりと視界全体を見ていても、
誰かの目がちらり、と動くだけで反応するのだ。
あの男子はこの女子が好きなのだなあ、とか
あいつは真面目に聴いている顔をして半分眠っているな、とか
すべて見えている。
一段上の教壇に立っているのだから。
自分の位置が高くなればなるほど、下のものはちっぽけに見える。
「人がゴミのようだ」と言い出しかねない。
冬期講習の最中だったが、悪化した風邪が治らず高熱が出ていた。
呼吸をするたびに胸が痛み、咳き込むと口から血が飛び散った。
大晦日の前々日、一時間だけ休講させてもらって病院に行った。
すさまじく高圧的な医者がいて、自分の偉さを得々と語りながら
患者である私の顔は一度も見ないで診察をした。
肺炎だった。
そうであっても休めないので教室に戻る、と言うしかなかったが
医者は鼻で笑い、馬鹿なんじゃないの、と言った。
その病院には二度と行っていない。
思い上がった人間になる三大職業、というものがあるらしい。
教師、医者、占い師、なのだそうだ。
どれも、いつも下から教えを請われ、命や運命を託す人々に拝まれるため
いつの間にか生徒や患者や客を下に見るようになり、
とんでもなく思い上がった、増上慢の俗物に成り果てる…という。
そのうち二つを生業としている私としては
思い上がるほどの力も業績もないからこそ、勘違いに陥らないように
いつもいつも、振り返り続けるしかない。
ワンドの7は、いつだってあっさりと逆転する。
自分はひとりきりで下にいて、上から複数の敵に棒で叩きのめされる、という
圧倒的に不利な立場に追い込まれかねない。
上の方に立つのは、ものごとをよく見晴らすための手段なのだ。
困っている人、迷っている人を見つけるために。
手段と立場を勘違いした瞬間に、人は奈落に転がり落ちるのだろう。