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カップのA

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ひと頃に比べて、東京で鳥の姿を見ることが多くなった。

街なかで見かけるのはカラスとスズメ、ハトくらいではないかと思っていたが、
気がつけば、あちこちから様々なさえずりが聞こえてくる。


地元の駅には今年もツバメが帰ってきた。
去年とおなじ場所に巣をつくり、母ツバメが卵を温め始めている。
父ツバメが「どうだ!」という顔をして胸を張り、乗客の群れを見下ろしているのも例年通りである。

駅の横を流れる川には、よくシラサギが飛来する。カモの群れにひと際目立って優雅だ。
小柄なコサギは、ツインテールのような頭の飾りを振りまわしている。

住宅街の電線に、大きな緑色のインコがずらりと並んでいるのを見かけたときは驚いたが、
これはペットとして輸入されたワカケホンセイで、逃げ出して野生化したものらしい。

冬場は、ムクドリが残った柿の実をつついたり、のんびり日向ぼっこをする姿が見られた。
シジュウカラはそこらじゅうにいて、朝の訪れとともに鳴きかわし始める。
ウグイスの歌を聞くことも珍しくはなくなった。
乗馬に行けば、馬房のまわりを生意気なハクセキレイが走り回っている。

気がつけば、街は様々な鳥の羽ばたきに満ち溢れている。


小鳥にいたずらをされた。

駅から仕事場に向かう近道がある。
ほんの数メートルほどの細い路地だが、上に八重桜の枝がアーチ状に被さっている。
花の頃は、なんとも風雅な小道となるのだ。

頭上の枝に、小さな鳥がとまっていた。
茶がかった灰色の地味な色合いだから、ウグイスだったのかもしれない。
(ウグイス色をしている鳥はウグイスではなく、メジロである。)
私が下を通る瞬間、小鳥は八重桜の花をついばんだ。
ひらひらひら。

ひらひらひら、と
桃色の花びらが私の頭に降りそそいだ。
しずかな春の午後、あたたかな日差しのもと、
小鳥が花弁の雨をひらひらと降りこぼしてくれる。
まるで絵本のような、童話のような出来事に、心が酔ったようにふわふわとした。

通り過ぎ、振り返ってみていると、
小鳥は人が通るごとに、ひらひらと花を降らせて喜んでいるようだった。


カップのAのカードを思い出した。
たおやかな手に支えられたカップに、
ホスティア(ミサ用のウェファース)を咥えた白いハトが舞い降りる。
それをきっかけに水は湧き出し、蓮の池に流れ落ち、
蒸発して大気の中をのぼり、雲になって雨になって降りそそぎ、
という美しい循環を始める。

水が象徴するのは揺れ動き湧き出す感情、愛情であり、
自在にかたちを変えながら広がっていく感覚や、イメージである。

小鳥によってきっかけはつくられる。
心は動き始める。
自らを優しく満たす愛はこぼれて広がり、
周囲のすべてに注がれていく。
優しい気持ちや美しいイメージは蒸気のようにふくらみ、
殺伐とした、散文的な世の中を塗りかえて
詩情溢れる世界へと変えていく。

憎しみや攻撃ではなく、
差しのべられる手と想いがある世界、
それは平和だ。


2011年3月11日の午後。
私のいた家は軋み、ねじれ、傾きそうに激しく揺れた。
無我夢中で廊下を駆け抜け、玄関のドアを開け放った私は
空を見て息をのんだ。

無数の鳥、鳥、鳥、
カラスやハトや名も知らぬ鳥の群れが空を飛び回っていた。
ギャアギャアと鋭く鳴きかわし、高く低く混乱して、
隊列をつくることもなく四方八方に乱れ飛んでいる。

常なら地上にいたり、軒端に休んだり、木々にとまっているはずのすべての鳥が
激震を受けて一斉に空に飛び立ったのだ。

どんよりと白く曇った空を、乱高下しながら旋回する鳥たちの群れ。
ヒッチコックの映画のように、ただごとではない光景。


鳥が地上に安らげない世界は、人にとっても安らかではあり得ない。
天災を止めることはできなくても、
動乱や爆撃で街を震わせるのを避けることはできるだろう。


平和の白いハトを探さなくても、すぐそこで
身近な街中で、この窓の外で
ぴーすぴーすぴーす、と
シジュウカラはいつも唄い続けている。
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