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カップの3

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むかし、カボチャが嫌いだった。


味や匂いが苦手だったわけではない。
食べたことすらなかったのだ。
それでもカボチャを許すわけにはいかなかった。

ただ、プライドの問題で。



それは、入園式の日だった。
はじめての世界に、四歳のわたしはドキドキしていた。
お教室、お庭の遊び場、たくさんのお友達。
幼稚園に入るほど大きくなったということが
とても晴れがましく思えていた。

お寺の経営する施設だから、園長先生はつるつる頭のお坊さんだ。
入園式でのお話を、四歳児にできうる限りの真剣さで聴いた。

「みなさん、自分のお道具箱をきれいに使いましょうね。
 自分のだということがわかるように、どれも、ひとつひとつにしるしがついています。
 みなさん一人ひとりに、自分だけのマークがあるのですよ。
 お靴箱でたしかめてください。みなさんのお名前の横に、自分のマークがはってありますよ」

それはすごい!と、わたしは目を丸くした(と思う)。
入園式のあと、さっそく靴箱にかけつける。
他の子たちもマークが気になるのか、みんな目を皿のようにして自分の名前を探している。

「あった! や・ま・だ、と・も・や……。ぼくのマーク、ひこうきだ!」
「わたし、ひまわりのお花!」「うさぎだー」「わあ、ぶどうだよ」

歓声が上がる。わたしも靴箱に鼻先をくっつけるようにして、自分の名前を探した。
当然ながらアイウエオ順に並んでいたわけで、三上の「み」の字は最後の方にあった。

「あった!」
私の名前。その後ろに貼られた小さなシール、緑色のインクでプリントされたマークは……

かぼちゃ。


衝撃だった。
他の子が貰ったのは、はイチゴやスズランなどの可愛い、あるいはヨットやカブトムシなどの格好いいマークだ。
わたしだけが、カボチャ。
ごろっと不格好に転がった、鈍重で田舎っぽい、美味しくもなさそうな、みっともないカボチャ。
わたしは激しくそのマークを憎んだ。

カボチャを憎んだ。


カボチャを嫌いになったきっかけは、それしか思い当たらない。

以来わたしは執念深く、いっそ忠実なくらいの真剣さでカボチャを嫌い通した。
煮物であろうと天ぷらであろうと、徹底して遠ざけた。
八十年代頃から、カボチャは生意気にもサラダに登場したり、
ふざけたことにスイーツにまで出張ってくるようになったりしたが
わたしは追放の手を弛めたりはしなかった。
九十年代以降は、身の程知らずにもカボチャの野郎はハロウィーンのアイコンとして市場にはびこり、
あっちを向いてもこっちを向いてもカボチャだらけのディスプレイ、という地獄のような様相を呈したが
わたしは絶対にカボチャを認めなかった。

敵。
カボチャはかたきである。
幼い心を傷つけた無神経のかたまり、
それがわたしにとってのカボチャだった。


ふっ、と何かが軽くなったのは
なんと三十七歳のときである。


そのとき、わたしは大阪にいた。

枚方市にある予防医学のサロンで、私は二か月に一度タロット講座を開いていた。
数日間の泊まり込みで、オーナーさんや生徒さんと食事を共にしながら
集中的にタロットをレクチャーするのだ。

ある日、午前の初級レッスンを終えて、皆で昼食のテーブルを囲んでいた。
オーナーさんが作ってくれるのは、ご飯と赤だしのお味噌汁、焼き魚や野菜炒めといった家庭的なメニューだ。
生徒さんが手作りの一品を持ち寄ってくれることもある。

「これ、作ってきたわ。カボチャのバルサミコ酢炒め」

先生どうぞ、と目の前に出されて

わたしは
ごく自然な動作で
それを食べた。

美味しかった。

食べてしまえば、なんということもなかった。


そしてそのとき、わたしの心の中にあったのは
カボチャへの敵愾心よりも大きな

「せっかく生徒さんが手作りして勧めてくれたものを断るのは人道に悖る」

という気持ちだった。

ひとりの社会人としての人様への配慮、である。


要するに、そのとき、わたしはようやく大人になったのだ。



今、カボチャはわたしのメルクマールである。
人格の成長は一生涯つづくものだが、
「子供」から「大人」になることは、大きな通過ポイントであるに違いない。

わたしは三十七歳まで、精神的には子供だったのだ。
カボチャはその象徴だった。

ランダムに与えられた記号を、自分に向けられた無神経な態度と受け取り
自尊心を傷つけるものとして敵意を抱き続ける……

なんだか中二病の話みたいだ。

カボチャを嫌い続けていたころ、わたしは周囲のすべてに対して非寛容だった。
そして気付かぬまま、自分に対してべたべたに甘かった。
精神の幼稚な子供である。

東京という、自分が生まれたテリトリーを離れて仕事をするようになり、
価値観の違う多くの人々に揉まれる日々が続いていた。
それまでしがみついていた人間関係から自分を切り離し、
働きながら大学に通って最新の知見を得ることで
ものの見方や考え方も刻々と変わりつつあった。

カボチャを受け入れたのは、私の精神の成熟である。


今、わたしはカボチャを使った料理が好きだ。
秋が深まるにつれて美味しくなる実をオーブン焼きにしたり、
ひょうたんのようなバターナッツかぼちゃをポタージュにしたり、
オレンジ色のカボチャとクリームチーズを和えて、ワインのつまみにしたりしている。


そして、タロットの「カップの3」を眺めてみる。

幸せそうに乾杯する三人の女性、その足元に転がる大きな完熟カボチャ。

このカードの本当の意味は「心の成長」であるということを思い出して

少しは大人になった自分、に乾杯したくなるのである。
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